自信についてその5

皆さんは優生学という概念をご存知だろうか?有名なダーウィンの進化論に影響を受けているものである。

これはその名の通り簡単に言ってしまえば、ダーウィンの進化論を人間に当てはめて、人工的に人間を振るいにかけて弱いものを排除してより良い社会を作るということである。産児制限、人種改良、遺伝子操作といった風に。

それをドイツはQOL(人生の質ではなく、生命の質)を盾に精神障害者などをジェノサイドしたのだ。そしてユダヤ人を迫害した(これも優生学的には是正されたものだ)

現代でも行われていたりする。日本でもかつては優生保護法と言って知的障害者を勝手に断種したり子宮摘出したりと。生きていくのには問題ないレベルの人間をだ。もしかしたら、今で言う発達障害もそのうちにいたのかもしれない。

で、僕はこのことに優越感を感じた。これは昨日受けた講義と春に受けた講義を合算した考えによるものだ。

僕は今フランケンシュタインをテーマにいろいろなことを学んでいるのだが、フランケンシュタインとはそもそもあの怪物ではなく、製作者、ヴィクター・フランケンシュタイン博士がいつの間にかあの怪物についたのである。

物語の中ではフランケンシュタイン博士は生命を神のごとく作り出したのだが、あの怪物が生命を持った途端にその醜悪さをみて拒絶する。ここがインテリの研究者に言わせると今でいうネグレクトに当たるらしい。そして暴走した怪物は様々な悪行を働く。

僕はツイッターで、親に望んだ通りの人間になれなくて親に拒絶を受けた人間をわんさといるのを知っている。

これはインテリの先生に言わせるとフランケンシュタインの物語は親子の関係を批判している文学であるらしい。フランケンシュタイン博士は自分の望んだような生命ではなかったから怪物を拒絶した。これを親子関係に直すと自分が望んだような人生を、いや振る舞いの時点でもいいのかもしれないが、子供が歩めないと親は拒絶する。

現代風に言うとフランケンシュタイン博士は毒親だったわけだ。

本題に入ると僕もその怪物になりそうだったのだ。小中高と親からも散々な、扱いを受けた(進学するたびにその頻度や質は変わってきたが傷を受けたのは変わりはしない)運が良かっただけだが、怪物にはならずになんとか今こうやって文章を打てている、100年も前なら優生学に引っかかって殺されてるだろう人間が健常者とともに講義を受けている。これで、気分が少しは良くならない方がおかしい。朝だから(朝と夜中はテンションがおかしいのだ)こんなことを言うのだが、発達障害が健常者に紛れこめるレベルにいるのはこれはむしろもはや強者と言ってもいいのではないだろうか。まあまた壁にぶちあったたらこんな考え塵が風に吹かれるごとくオシャカになるだろうが。

それでも一時的にでも自信が持てたことは嬉しかった。これであとは作曲ができればもう何もいらない。